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2014年8月6日水曜日

【投稿】(第二次疎開裁判への抱負)子どもたちの避難の実現は、ライフワークを棚上げしてでも取り組むべき課題だと思った(柳原敏夫)

                                 第一次疎開裁判 弁護団長 柳原敏夫


昨日自殺した理研の笹井芳樹氏の研究分野つまりバイオテクノロジーが、3.11まで私のライフワークでした。
以前から知られていたことですが、バイオテクノロジーの究極の未来像の1つが「頭のない臓器移植専用生き物の大量複製の工場」[1]です。
他方で、荒業、力業で自然と生命を思う通りに作り変えられると自負して、あたかもプラモデルでも作るかのように、得体の知れないウイルスのDNAなどを使って生命を切った貼ったと改造するバイオテクノロジーの研究者たちが何をしでかすかは2005年に始まった禁断の科学裁判(遺伝子組換えイネ野外実験の差止裁判)を通じて経験済みでした。
早晩、バイオテクノロジーの暴走による過酷事故が発生し、人間の生命と地球環境に回復不可能なまでにダメージを与えることになる。それを未然に防ぐことが私のライフワークでした。そのために、バイオテクノロジーの雄である米国モンサント社のバイオテクノロジーに関する基本特許がいかに危険なものかを明らかにし、この特許の無効を勝ち取る申立てを1年以上かけて準備をし、申立の寸前までいったところで(審判申立書)、福島原発事故が発生しました。


この瞬間、私は、自分のライフワークを棚上げするしかないと観念しました。それまで私は、原子力利用について、素朴に、市民運動の長年の努力のおかげで、原発事故の発生はほぼ防げるまでの段階に到達したのだろう、だから、自分の関心を、原子力利用と並ぶ未曾有の力業の技術であるバイオテクノロジー問題に振り向け、専念して大丈夫なのだと思い込んでいたからです。しかしこれは無知の極みでした。福島原発事故で原発問題は何一つ片付いていないことを頭に叩き込まれたからです。このような前代未聞の過酷事故を目の当たりにして、自分の無知を思い知らされると同時に、このあと自分がたとえ鶴や亀みたいに数百年、千年生き長らえたとしても、決して遭遇することがないような事故に思えました。なぜなら、もしこのような事故がもう一度起きたら、そのとき、日本は全滅し、自分も生きていないからです。3.11後2ヶ月自宅に引きこもったあと、人々が東京から西へ、国外に逃げ出そうとしたのを見て、福島に向かいました。


 このとき、私がバイオテクノロジーの裁判(禁断の科学裁判)で経験済みで最も怖れていたことは「科学上の事故は二度発生する」ことでした。一度目は自然と人間との関係で、人間の落ち度や見込み違いや偶然の要素によって発生する。しかし、決して一度では終わらない。そのあと二度目に、人間と人間の関係で、つまり市民社会との交渉の場面で世論操作する中で、確固たる必然の要素によって発生する。これが福島原発事故でも反復されるのではないか。そのとき、「事故を小さく見せるためにはどんな犠牲を払うことも厭わない」と決意した日本政府はどんなウソでも平気でついてくるだろう。現実は危惧した通りの展開となりました。その結果、確信犯的な二度目の事故による最大の被害者は放射能の感受性が高く、社会の最も弱い人たちである子ども、妊産婦でした。二十数人が殺されたサリン事件を日本史上最悪の犯罪と呼ぶとしたら、二十数万人の子どもの命を危険にさらして顧みない日本政府の行為をどう表現したらよいのか、筆舌に尽くし難いほど正義に反する犯罪行為としか思えませんでした
ごく自然に、良心の示す方向へと進みたいという気持ちを抱いていたなら、日本政府のこの前代未聞の不正義を改めさせないではおれないとごく自然に考える筈です。そのことを小出裕章さんはこう表現しました――それ(子どもの命を救うこと)をしないで生きていれば、私は私自身を許すことができません。私も福島に向かうしか、自分が正気でいられる道はないと思いました。

そして、福島で、途方もない困難な中で決して諦めない勇気を持った素晴らしいお母さん、お父さんたちと出会いました(その人たちの声->動画。 文書)。

その勇気に励まされて、その1ヶ月後に、第一次疎開裁判が始まりました(Ourplanetの動画)。

いま、そのときの初心に、原点に戻ることが、途方もない困難な中で決して諦めない勇気を持つ人たちとつながることが何よりも大切だと感じています。
子どもたちの命を生かすも殺すも、われわれ次第なのです。




[1] 人工子宮というガラスビンの中で、ヒトの胚を、遺伝子組換により頭の発育を抑えて、頭のない胎児を育てることができる。あとは、臓器をクローニングしておけば、その生き物の臓器が、提供者のそれと完全に適合するものが確実に得られ、組織の拒絶反応というリスクを負わなくても済む。

いずれ、こうしたヒトではなく、かつヒト以外の生き物でもない(頭のない)臓器移植専用生き物が、工場のガラスビンの中でで、大量に複製生産することができる時代となる。

これなら「誰にも危害を及ぼしていないのだから、倫理的な問題もない」(ロンドンの或る研究者)、今までの臓器移植の問題がすべて解決する。これが21世紀初めのいつかに出現するとされる、バイオテクノロジーの未来図の輝かしい一例(ジェレミー・リフキン「バイテク・センチュリー」5758頁)

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