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2013年5月3日金曜日

速報【仙台高裁の判決(決定)の紹介(4)】「子どもは危険の中にいる」から「子どもを救済する必要はない」の残忍酷薄な結論をどうやって導いたの?(その2)郡山市は避難先の市町村を差し置いてまで学校を設置する必要はない

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第1、はじめに
4月24日の仙台高裁の判決(決定)は、以下のとおり、未だかつて見たことがないほどの相容れない激しく矛盾する2つの内容が並べられていました。

1、事実認定
(1)、郡山市の子どもは低線量被ばくにより、生命・健康に由々しい事態の進行が懸念される、
(2)、除染技術の未開発、仮置場問題の未解決等により除染は十分な成果が得えられていない
(3)、被ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するしか手段がない 
  ↓↑
 2、結論
子どもを安全な環境で教育する憲法上の義務を負う郡山市に、郡山市の子どもを安全な他の地域に避難させる義務はない。

問題は、この2つの内容をどうやって橋をかけるか、つまりつなぐかです。

第2、本論
 この点、判決は2つに分解して、バラバラに橋をかけました。

1つ目の橋は「子どもたちを年1ミリシーベルト以上の危険な環境で教育するな」という要求に対するものです。その詳細は->【仙台高裁の判決(決定)の紹介(3)】
2つ目の橋は、「子どもたちを年1ミリシーベルト以下の安全な環境で教育をしろ」という要求に対するものです。
2つ目の橋について、判決はこう言いました(15頁(5)~17頁7行目)。

、現に、郡山市の学校施設で教育を受けている生徒がおり、その教育活動を継続することが直ちにその生徒の生命身体の安全を侵害するほどの危険があるとまでは認め得る証拠もない。だから、郡山市が現在の学校施設で教育活動を継続しても「直ちに不当であるというべきものではない」(15頁下から5行目~)。
、 避難先での教育は、避難先の市町村の手で行われるのが原則であり、郡山市がわざわざ避難先の市町村を差し置いてまで、新たな学校を開設する必要はない。(16頁3~6行目)
、子どもたちは、自主避難すれば、避難先の市町村の学校が受け入れてくれるから、それで放射線障害から解放されるという目的は十分に達成できるはずである(16頁6~7行目)。
、原告は、子どもたちの友情が自主避難の障害になっていると主張するが、本裁判は原告個人の救済を求めているのだから、友情といった他の生徒の動向を考慮すべきでなく、障害とはいえない(16頁8行目以下)。
、以上から、 「子どもたちを年1ミリシーベルト以下の安全な環境で教育をしろ」という要求は認められない。

1について
 判決の上記の事実認定(1)~(3)に素直に従えば、「郡山市が現在の学校施設で教育活動を継続」することは、子どもを安全な環境で教育する憲法上の義務を負う郡山市にとって許されない、となる筈です。
 しかし、それでは困る。ではどうするか。それなら、別の事実認定をひそかに忍び込ませればよい。それが、判決の13頁下から9行目~末行まで、突然挿入された盲腸のような以下の事実認定です。
子どもたちの生命・健康は、現在直ちに不可逆的な悪影響を及ぼす恐れがあるとまでは証拠上認め難い。
まず、この事実認定が疎開裁判で提出された証拠に照らして、いかに不合理なものかは、【仙台高裁の判決(決定)の紹介(2)】で解説しました。
さらに、この不合理な事実認定を全面に出し、それ以外の上記の事実認定(1)~(3)は「目をつぶれば世界は消える」がごとき扱いをしてひと思いに吹き消してしまいました。そこから「郡山市で引き続き教育活動を行っても違法ではない」という念願の結論を導き出して見せたのです。これが仙台高裁のマジック(魔法)のトリックです。仙台高裁の裁判官は法の番人というより、魔法使い顔負けの技を披露してくれました。

2について
 もとより「避難先での教育は、避難先の市町村の手で行われるのが原則である」ことは私たちも十分承知していました。その上で、日本史上最大の人災である福島原発事故という未曾有の事態を踏まえて、次のように主張したのです。これは判決でも「抗告人の主張」としてきちんと認定しています(6頁(カ) 小中学校の設置場所)。

小中学校の設置場所については、文科省の通達により次のようになっていて、やむを得ない理由がある場合、その区域外に設置することも当然に認められる、と。

 市町村が小・中学校を設置するに当たっては、その区域内に設けるのが原則であるが、やむを得ない理由がある場合は区域外に設けることもできる。(昭和34・4・23委初80 初中局長回答)
そこで、ここでの争点は、本件では郡山市以外の区域に設置できる「やむを得ない理由がある場合」かどうか、です。この点、私たちは次のように主張しました(判決6頁に引用)
平成23年3月12日から同年5月25日までの75日間だけで年間最大許容限度である1ミリシーベルトの3.8~6.67倍もの外部被ばくとなった状況は、上記やむを得ない理由があることが明らかである。
 だとしたら、判決はこの争点について正面から判断すべきです。しかし、判決はこの争点について一言も判断しませんでした。ここでも「目をつぶれば世界は消える」という魔法を使って争点そのものを消してみせたのです。
そして文科省が「やむを得ない理由がある場合には、避難先で新たな学校を設置することができる」と言っているのに、「郡山市がわざわざ避難先の市町村を差し置いてまで、新たな学校を開設する必要はない。」と説教じみた口調で、原則論をくり返したのです。 

こんなぶざまな魔法を使うくらいだったら、あらかじめ「抗告人の主張」の6頁(カ) 小中学校の設置場所でも、私たちの主張を正確に紹介せずに、用意周到にごまかすべきです。すぐ化けの皮が剥がれるようでは、魔法の修行がなっとらん!

3について
  ここは、一言で言って「自主避難のすすめ」です。言い換えれば、危険と思うなら自分で逃げろ、自分で避難しない奴は、あとからくたばっても知らないぞ、自分の命は自分で守れ、リスクは自分の責任で取れ、という昨今はやりの自己責任論、弱肉強食の論理です。

 この点、百歩譲って、福島原発の誘致・稼動に賛成した大人であれば原発事故による危険について、リスクは自分の責任で取れ、という議論は可能でしょう。また、福島原発の事故発生に責任がある大人であれば、原発事故による危険について、リスクは自分の責任で取れ、という議論は可能でしょう。
しかし、いま、疎開裁判で、自己責任が問われているのは大人ではありません。子どもです。いったい彼らは、福島原発の誘致・稼動に賛成したのでしょうか。遊んで福島原発を壊してしまったのでしょうか。子どもたちに、このような苛酷な自己責任が課せられるだけの、どのような福島原発事故発生に対する責任や関与があるのでしょうか。 
子どもたちは、100%被害者です。本来、無条件で完璧に救済されるべき存在です。他方、原発事故の加害者である国は、加害者として被害者を救済する義務を負っている存在です。なぜ、100%被害者である子どもたちは加害者である国(及びその国から公教育を実施する責任を分担している郡山市)から救済されないまま、「 危険と思うなら自分で逃げろ、自分で避難しない奴は、あとからくたばっても知らないぞ」という苛酷な自己責任が課せられることが正当化できるのか、このようなあべこべな論理がまかり通る理由が全くなされていません。
仙台高裁の世界は、被害者が加害者になり、加害者が被害者となり、無実の者が犯罪者となり、犯罪者が無実の者となり、正義が悪となり、悪が正義となるような魔法の世界なのでしょうか。 
  
 4について
  民事裁判の原則として「本裁判が原告個人の救済を求めている」ことは十分承知しています。ここで友情と言ったのは、あくまでも自主避難を決断できない原告自身にとっての重大な事情(他の生徒との人間関係)として言及したのです。他の生徒が自主避難できない事情を抱えているといった「他の生徒の動向」のことを主張した覚えは全くありません。

5について
 以上の1~4のまとめとして導き出された判決の結論【「子どもたちを年1ミリシーベルト以下の安全な環境で教育をしろ」という要求は認められない。】が認められないのは当然です。

以上の解説を読み、どう思われたか、これについて、皆さんの生の声を聞かせて下さい。その生の声を判決直後アクションにお寄せください。->こちらから日本語版   英語版)   
                                         (文責 弁護団 柳原敏夫)



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